rompercicci::diary

東京中野にあるコーヒーお酒ジャズのお店ロンパーチッチ

★地震の後で

こんにちは。ロンパーチッチです。
この1週間にご来店下さったすべてのお客様に感謝します。ありがとうございます。
本日は定休日となっております。

東日本大震災から1年が経ちました。
あの日、揺れるオフィスの中で、デスクの下に潜り込みながら、「ここでは死ねない」と思いました。背の高いキャビネットの上に無造作に積まれた書類の山が、私が隠れたデスクの上にドサドサと落っこちてきました。いつまでも会社員ではいられない、そう遠くないうちにドロップアウトして、自分たちのお店を始めよう、そんな漠然とした気持ちで、以前から少しずつですがお金を貯めてきました。あと3年くらいかな、なんて夫婦で話していました。
地震があって、今までなんとも思わずにすごしてきた日々が、実はとても不安定なものだということに気づかされました。私たちは偶然の上に生きていて、受け入れざるをえない大きな偶然がそこにはあって、その偶然によって理不尽な目に遭うことがある。極端な話、命を奪われてしまうことだってある。
(ここで私の考えは飛躍します)偶然の上に生きているのなら、その偶然の上の「相対的な安定」という虚構にしがみつくよりは、よりリスクが大きくても、自分が生きたいように生きて(あるいは「生きたくないように生きる」ことを拒否して)、最後には大きな満足とともに偶然に身を委ねたい。地震から1ヶ月半がすぎて、長いこと放置されていた物件に「テナント募集」の貼り紙を見つけたとき、私はそんなことを考えました。
早い話が「次の地震で死ぬんだったら、イヤイヤ仕事をしているサラリーマンよりは、ジャズ喫茶のオヤジとして死にたいな」と思ったのです。

まあそんなこんなで今があり、イヤイヤ仕事をしているサラリーマンから足を洗うまであと少し、という状況である、と。
…なんだかナイーブな自分語りになってしまいました。

申し上げたいことがふたつあります。

ひとつは、1年前の震災によって理不尽な目に遭われたすべての方にゴメンナサイ、という気持ちを持っていること。私たちが被災しないでここにいる、という偶然に対して、同じ偶然によってひどい目に遭った人たちに対して、感傷的な罪の意識を持っているということです。「次の不幸は私が引き受けます」とは言えません。言えないことにも罪の意識を感じます。罪の意識を持ち続けつつ、でも卑屈にならないで、とにかく強く優しく生きていきたいと思います。(なんだこの所信表明は?)

もうひとつ、ここで腰砕けなのですが、ぜひ当店にお越し頂きたいということです。次の地震がいつになるのか見当もつきませんが、そのときまで私たちがジャズ喫茶の人間でいられるかどうかは、ひとえにお客様が当店にいらっしゃるかどうかにかかっております。
「ジャズ喫茶のオヤジ」として死にたかったのに、気がついたら「昔ジャズ喫茶をやっていた風采の上がらないオヤジ」として死んでいた、という想像は(リアリティがありすぎるだけに)あまりうれしくありません。お客様にとって快適なお店であるように、私たちもより一層努力して参ります。どうかお引き立てのほどよろしくお願い申し上げます。

 3/11よりアンプ入院中